幸せは銭湯にあり

 会社勤めをしていた頃,一週間お疲れさまの意味を込めて金曜日に,来週も頑張るぞの意味を込めて日曜日に,銭湯に行くようにしていた。当時住んでいたところはユニットバスだったから,家ではいつもシャワーで済ませていた。そのぶん,銭湯での入浴は格別だった。浴槽のふちに首をひっかけ顎まで湯につかり,熱い湯の中で手足を伸ばし,深く息を吐きながら水面をぼうっと見つめる。そうしていると,身体の回復とともに自分を労わっているという満足感を覚え,自然と思考が前向きになるのだ。この頃から「銭湯っていいな」という思いは持っていたものの,仕事が忙しかったこともあり,自宅から自転車で通えるところにしか行くことがなかった。そして銭湯のことは「ちょっと贅沢なお風呂」としか認識していなかったと思う。

 会社を辞め,時間に余裕ができてからは,スタンプラリーの景品やオリジナルグッズを集める楽しさも手伝って,遠方の銭湯にも喜んで足を運んでいる。銭湯へ通えば通うほど,銭湯は,ただ入浴をする施設とひと言で表すにはあまりにももったいないくらい魅力にあふれた場所であるとつくづく実感する。

 

 銭湯と聞いていちばんに思い浮かべるのは,いわゆる宮造りの銭湯だろうか。神社仏閣のような,立派な外見の銭湯である。豪華な外観を見ていると,当然内装への期待も高まる。暖簾をくぐりながら,自分がもっとも楽しみにしているのは,脱衣所の格天井だ。格天井とは,次のような特徴をもった天井である。

「格天井とは,格縁と呼ばれる木を格子状に組み,その間に四角い一枚板を貼り込んでいった天井仕上げのことをいいます。重厚な印象で,最も格式の高い天井様式とされ,寺院建築,城郭建築に多く用いられています」

(『銭湯検定公式テキスト❶』,草隆社,2020年,P.149)

 脱衣所に入り高い格天井を見上げると,屋敷に足を踏み入れたような気分になり胸が高鳴る。浴場に入る前に,はやくも心が癒されるのだ。

 

 銭湯に通うことで,四季を感じることもできる。5月の端午の節句には菖蒲湯,6月の土用の日には桃の葉湯,11月の冬至にはゆず湯,……。季節ごとに,実にさまざまな変わり湯が用意される。そんな湯につかっていると,帰り道に旬の野菜や果物でも買ってみようか,なんて気分になる。

 

 入浴中の幸福感は,入浴後も続く。風呂上がりの疲労感と爽快感に包まれながら夜道を歩く心地よさは,他では得難い。そして一日の終わりには,銭湯で味わった感覚を思い出して眠りにつく。薪で沸かした湯のほのかに甘い香り,湯につかっているときに聞こえるシャワーの音,湯上りに休憩しているときの浮遊感,ほてった身体で受け止める扇風機の風,全身に沁みわたるコーヒー牛乳の味,……。

栗のおいしさを判断できない

 学生時代、栗拾いに行く案が出たが、栗は新鮮さがおいしさに直結するイメージがわかないということで友人と意見が一致し、結局取りやめになった。

 

 栗にも旬があるのはわかる。植物に成るものである以上、収穫できる時期が限られるのは当然だ。問題は、旬の時期に食べる栗は、収穫したての栗は、果たして格別においしいのか、ということ。

 

 新鮮な魚や野菜、果物のおいしさはすぐに想像できるし、おいしくないものとの違いも説明できる。しかしこれが栗になると自信がない。そもそも栗と新鮮という言葉が結びつかない。その理由を考えてみた。

 

 まず、栗は水分が少ないということ。「新鮮」という言葉から想起されるみずみずしさが足りない。また、モンブランや栗きんとんなど、加工したものを食べる機会が多いということ。栗本来の味のバラエティをよく知らないから、おいしいかそうでないかを判断できないのだ。

 

 つらつらと書いたが、栗が嫌いなわけではない。ので、味の勉強を口実にして、今が旬の栗を食べに行こうと思う。

いつも心に小松未歩を

 前髪を少し短くしただけで 生まれ変われちゃう そんな考え方が…わたしも好きである。他人からはわからないほどの些細な出来事で、心機一転できる小松マインドを大切にしたい。

 

 先日、歯医者で歯のクリーニングをしてきた。歯医者に足を運んだきっかけは親知らずだったのだが、そちらの処置は一旦保留することとなった。その代わり、というわけではないだろうが、クリーニングを勧められたのでそれに従うことにした。定期検診にも行っていなかったため、実に10年以上ぶりの施術である。

 

 美容院のシャンプー時のように目元にタオルをかけられ「おお、歯医者ってこんな感じだったっけ」と思いながら施術が始まった。痛みはないのに、口をゆすぐたびに信じられない量の血の塊が流れ出す。はじめこそギョッとしたものの、だんだんと快感を覚えてくる。

 

 そうしてなんと1時間近くもかけて丁寧にクリーニングしていただいた。ひとたび綺麗にすると、大事にしようとする意識が働くものである。施術が終わったらたこ焼きでも食べて帰ろう、という考えも吹き飛んだ。うむ、ほんとうに生まれ変わったようだ。本来半年に一度程度の頻度で通うのがよいとのことなので、今後は9月、3月を歯科検診の月にしようと思う。

 

金木犀

 小さい頃は、金木犀の香りが嫌いだった。香りそのものが嫌というより、あの主張の激しさが嫌だった。わざとらしくて奥ゆかしさのかけらもないそれは、自分の中にある花のイメージとかけ離れていた。

 

 ところが、年をとるごとに、金木犀に対する否定的な感情は薄らいでいった。単純に幼少期よりも嗅覚が鈍くなったからだとも考えられるが、理由はそれだけではない。

 

 大人になり、会社を辞めてからは特に、季節の行事と縁遠くなった。昔と比べ、春や秋の期間が短く感じられるようになってからは、季節のうつり変わりを落ち着いて肌で味わうことも少なくなった。そんなとき、動植物に疎い自分にとって、金木犀が香ることは季節を感じられる数少ない事象のひとつだと気づいた。秋の訪れと金木犀の香りが結びついたとき、無視できない馥郁とした香りにありがたみを感じた。

 

 年をとってからの味覚の変化は数知れないが、香りに対する感情がこうも変わるとは驚いた。意識したことはなかったが、音や手触りに関する印象も、幼少期から変化したものがあるかもしれない。

嫌な家事ナンバーワンは絶対洗濯

 月曜日は床掃除の日と決めている。床掃除といっても、ルンバ(もどき)を作動させて、気が向いたらクイックルワイパーで水拭きをするだけのことである。無精者の自分としてはまめに掃除をしているほうだと思っているが、週末の床を見て、まともな大人は果たしてこんなに抜け毛だらけの家で生活しているものだろうかと考えることもある。あくまで考えるだけで、掃除のスケジュールを改める気は毛頭ないのだが。抜け毛だけに。

 

 さて、家事といえば、いちばん億劫なのは洗濯である。これはもう、自分の中では長年不動の第一位だ。以前は、可能なかぎり洗いものを増やさぬよう生活し、洗濯の回数は極力少なく済ませていたのだが、自宅で軽い運動をするようになってからは、そうもできなくなった。洗濯の何が嫌かといえば、やはり時間がかかることだろう。洗いものをネットに入れて洗濯機をまわして、洗い上がった洗濯物を干して、取り入れて畳むという複数作業を必要とし、さらに1つの作業が完了してもすぐに次の作業に取り掛かることができない。こちらの都合などおかまいなしに鳴り響く洗濯機の完了音も堪らない。

 

 料理や掃除であれば、サボろうと思えばいくらでもサボれるものである。自炊が面倒なときは外食という手段もあるし、自分が気にならなければ掃除だって頻繁にする必要はない。また、3日ぶりに掃除をしようが3週間ぶりに掃除をしようが、その労力はそれほど大きく変わらない。しかし、洗濯の場合、サボればサボった分だけ干すのも畳むのも大変になる。ほかの家事に比べて、作業工程の省略や工夫をする余地がなく、圧倒的に手を抜きづらいのだ。洗濯を楽にする唯一の方法は、こまめに洗濯をすることである。ということで、今後は2日に1回の頻度で洗濯をすることに決めた。これがわたしの選択だ。

壁掛け時計

 時計を買った。壁に掛ける、ちゃんとした時計である。

 わたしは朝起きるのが苦手だ。目覚まし時計のアラームを止めた記憶もないまま二度寝をしてしまう。そこで、目覚まし時計を洗面所に置き、アラームを止めた流れで顔を洗うことにした。以来、予定していた時間にきちんと起きて、朝の時間を有効活用できるようになった。と、言いたいところだが、アラームを止めた瞬間洗面所の床で二度寝をしてしまうこともある。しばしば、ある。起床には、システムだけではなく意志が必要であることを日々痛感させられる。

 

 目覚まし時計を洗面所に置く効能はさておき。一日のうちに、目覚まし時計を洗面所からリビングへ、リビングから洗面所へと持って移動するのが煩わしくなったのである。パソコンもスマートフォンもあるから時刻はいつでも確認できるのだが、やはりアナログ時計が好きなのだ。人は、時計の針の動きによって、時間の長さを把握している。というようなことを、中学生の頃、違う学校に通う友人の教師が話していたと聞いた。そんな昔の、それも人づてに聞いた話をどうして覚えているかといえば、そのとき妙に腑に落ちたからである。

 

 ちょうどフックが掛けられるレールのようなものがあり、部屋のよい位置に時計を配置することができた。「○時だぞ〜、△△の時間だぞ〜」と、ほどよい圧をかけてくれている。

 

鉄瓶

 鉄瓶を購入してから3か月が経った。気に入っている。容量が1Lしかないため、日に何度も湯を沸かさねばならないという厄介はあるが、それでも買ってよかったと思っている。扱いに慣れた今では、沸騰がおさまらないうちに蓋をして口から湯を吹きこぼさせたり、熱気で火傷しかけたりすることもない。3口コンロの左下は、すっかり鉄瓶の定位置となった。

 

 鉄瓶を買うまでは味噌汁も麦茶も同じ行平鍋で作っていたのだが、たびたび不便を感じることがあり、やかんを新調することにした。学校給食で使われているようなアルミ製のものを買う予定でいたが、いろいろな商品を見たり、材質について調べたりするうちに、鉄瓶が候補に浮上した。鉄瓶で沸かした湯は、まろやかでおいしいうえに鉄分が豊富らしい。また、長く使うと鉄の経年変化が楽しめるようだ。実用性を考えて、軽くて大容量のものを探していたのだが、結局「一生もの」という文句が背中を押し、鉄瓶を買う決心をした。この決心から望みの鉄瓶に出会うまでに半年ほど時間を要することになるのだが。

 

 湯がおいしいというのは魅かれたポイントのひとつではあるものの、正直あまり期待していなかった。劇的な違いがわかるような繊細な味覚が、自分に備わっているとは思えなかったからである。ところが、予想に反しておいしかった。無味なのである。「無味」がおいしさを表現する言葉として適切かどうかは疑問が残るが、無味としか言いようがない。茶葉を使わなくとも、湯のまま十分おいしく飲める。

 

 手のかかる子ほどかわいいという言葉があるけれど、鉄瓶は中に水を入れっぱなしにさえしなければ、洗う必要もない。鉄瓶は、手間のかからないかわいい奴である。かわいい鉄瓶を粗悪な環境に置いておけないという親心のおかげで、シンクまわりも清潔に保つことができている。