漫画づくりの参考に絵本を

 先日、友人と好きだった絵本の話になり、わたしは『めっきらもっきら どおん どん』を挙げた。話していると懐かしくなり、読み直してみた。そして確信した。自分の中で、この絵本は異世界トリップものの原点にして頂点であると。テンポのよさ、魅力のあるキャラクター、ほんのりと寂しさを誘うラスト。短い話の中に、真似したいと思う点が次々と見つかる。

 まず、テンポのよさである。この絵本は、(起)異世界へ行く→(承)3体の妖怪と出会う→(転・結)現実世界へ帰ってくる といった話なのだが、驚いたのは「起」にあたる部分の短さだ。物語をつくるとき、「起」の前の部分を考えすぎなのかもしれない、と気づかされた。「起」が起こるためにはこんなことがあって、それが起こるのはこんなことがあったからで、・・・といった具合に。もちろん、内容に深みを出すためにはそういったことを考えるのは重要だと思うのだが、それを実際に描くのかどうか、描くとしたらどのタイミングでどのように描くのか、よくよく吟味しなければならない。

 次にキャラクター。妖怪たちのビジュアルは、たとえばディズニーやサンリオのキャラクターのように、いかにも子ども受けしそうなものではない。それでもわたしは、小さい頃「こいつら、なんかかわいいな」と思った記憶がある。マスコット的な愛らしさや複雑な心理描写などなくとも、チラリと見える人懐っこさに心を掴まれたのだと思う。

 そしてラスト。妖怪たちとの別れは、予想はできていてもやはり寂しい。寂しいと感じるのは、妖怪たちに魅力があること、そして異世界での出来事が楽しそうにえがかれていることの証左だ。いわゆる「タイトル回収」的な要素もあり、美しい終わり方である。

 あと、うまそうなもちも出てくる。グルメ要素までクリアしている。完璧だ。

 

 絵本は、大人向けの小説や映画よりも、人の心を捉えるしかけを抽出しやすい気がするので、今後も折を見てベストセラー作品に触れてゆきたい。

田宮俊作『田宮模型の仕事』

 本書は、素朴な木製模型から始まった日本の模型屋が「世界のタミヤ」になるまでの軌跡が描かれている。会社の成長譚であり、それと同時に大人の青春譚でもあった。

 

 プロフェッショナルとして、そして模型愛好家としての誇りが特に感じられる箇所を3つ紹介したい。

わが社のスタッフは、模型好きの連中で構成されています。模造品の設計をして、おもしろいはずがありません。それにプラモデル・ブームに乗って他業種から参入してくる”にわか模型メーカー”への対抗心もありました。(商売になるから始めたところと、模型が好きでやっているところの違いをみせてやる)

 

 ですが模型屋としては、完璧に、そしてリアルに再現したいと考えるものです。プラモデルの模造技術に問題があって再現できないのではなく、資料が不足していて再現できないのです。こんなに歯がゆいことはありません。

 不鮮明な写真を虫メガネで拡大し、穴のあくほど見つめたところで、わからないものはわかりません。とうとう、夢にまで戦車が出てくるようになってしまいました。私は夢のなかで戦車の下にもぐりこみ、嬉々として撮影しているのです。

 

 このときは、実際のポルシェが組みあげられていく工程を見せていただき、車の構造の”意味合い”が見えて、非常におもしろく感じました。写真を撮っていくうちに、私は「待てよ、この製造工程をそのまま模型に取り入れたら、模型づくりが何倍も楽しいものになるんじゃないか」と、思いました。

 実車と同じように部品化し組み立てるということは、できあがったとき、エンジンの接続部分などはかくれて見えなくなります。でもきっと車好きの人にとっては、たまらなく魅力的なキットになるはずです。想像しているうちに、なんだかワクワクしてきました。

 

 うらやましくなるほどの情熱である。「とことんやる」という精神は全編を通して語られているが、それを社訓としたり、わざわざ口に出して意識づけようとしたりしていたわけではないと思う。仕事の枠を超えた模型への愛とこだわりが、自然とそうさせるのだろう。だからマニアの心を掴むのだ。オタクが熱中できるものをつくれるのは、オタクしかいない。

 

 模型屋というと、イメージするのは設計図をかく姿、そしてその通りに製品をつくる姿だ。しかし、本書を読むと、設計図の前の段階がいかに重要かがわかる。設計図をかくためには資料を集めなければならない。考えてみれば当然なのだが、取材と称するタミヤの資料集めは想像を超えていた。先の引用からも、対象物に対する執念が窺えると思う。ちなみに、先の引用の3つめの節タイトルは「本物のポルシェ911を買ってバラバラにするしかない」だ。

 

 そしておなじみミニ四駆である。子どもがミニ四駆を改造し、それを受けてタミヤが改良パーツを開発したり指南書を出したりするエピソードを読みながら「子どもたちと二人三脚で成長していったのだな」と思っていると、節の最後は「ミニ四駆は、子どもたちと追いかけっこのように進化していったのです」と締めくくられていた。二人三脚ではなく追いかけっこ、成長ではなく進歩。ミニ四駆にまつわる技術の進歩のスピード感と、ミニ四駆をもっともっとよいものにしたいという子どもとタミヤ両者の本気が表れていて、大好きな一文だ。

 

 

 月並みだが、この本を読むと「よし、自分も」という気持ちにさせられる。創作意欲が湧いてくるのは、愚直に誠実に、そして夢中になってものづくりをしている人の考えに触れた瞬間だ。

 

早朝アルバイトのすすめ

 昨年の7月に早朝アルバイトを始めた。ちょうど7か月が経つ。週に4日、6:00〜9:00でスーパーの開店前作業をしているのだが、これがなかなかよい。

 始めるきっかけとなったのは、たびたび繰り返してしまう昼夜逆転生活だった。規則正しい生活を送ろうと、何度心に誓ったかわからない。しかし、やっとの思いで整えた生活リズムも、ほんの些細なことが引金となり、あっという間に堕落した生活に逆戻りである。これはもう自分の意志ではどうにもできぬと、およそ10年ぶりにタウンワークのホームページを開いた次第だ。

 最後の砦のつもりでアルバイトを始めたものの、体内時計が狂った挙句、またもや寝ずに出勤して帰ってから寝るなんて生活になってしまったらどうしようという不安が脳裏をよぎった。しかしながら、週に4日のシフトでは、さすがに生活リズムも乱れようがないようで、ここ5年の暮らしぶりからは想像できないような朝型生活を送っている。あくまで、自分のなかでは、の話である。そしてあくまで、今のところは、の話である。

 さて、大学生ぶりのアルバイトであり会社員ぶりの職場でもあったので、仕事内容や対人関係の不安もあったが、こちらも杞憂に終わった。商品の品出しが主な仕事なのだが、メモを必要とするような作業もなく1人で淡々とおこなっている。また、開店と同時に退勤するため、接客のトラブルがない。大学時代のアルバイトを振り返ると、これは大きな利点だ。

 アルバイト初日に筋肉痛になったということは、ささやかながらよい運動にもなっているのだろう。

 

 「すすめ」という言葉をタイトルに使ったが、これは他人におすすめしているわけではない。この記事は、怠惰という誘惑に負けそうになっている未来の自分のために書いている。

ひさびさ

 すっかり更新が途絶えたこのブログだが、先日ドキュメントの整理をした際にブログの下書きを見つけ、その存在を思い出した。

 ログインIDやパスワードも忘れたし、ブログごと削除してしまおうかと思ったが、なんとパスキーとやらの機能でログインできてしまった。また、過去の記事を読むと、文章の稚拙さや内容の陳腐さはさておき、そのときの自分の生活や考えを知ることができておもしろかった。

 日々の出来事や見たり読んだりした創作物に対し、言葉にするどころか考えることもなく毎日が通り過ぎてゆくことに危機感を覚えた、というこのブログを始めたきっかけを思い出したのもあるが、削除しかけたブログを再開しようと決めた最大の要因は、はてなブログProの契約期間である。はてなブログProの料金は、長期契約のほうが月額単価が安くなるため、いきなり2年コースで申し込んだのである。なぜ無料版で始めなかったのか。いつか収益か出来たらいいな、と思って有料版にした記憶はあるが、無料版から初めて、ある程度記事が増えてから有料版に切り替えればよかったのに。いろいろと思うところはあるが、今回は有料版であることがプラスに作用して再始動に至ったので、よしとしよう。

 

 さて、ブログを更新していなかった期間にあった大きなトピックといえば、ロードバイクに乗り始めたことだ。某自転車マンガに夢中になり、気づいたらロードバイクを買っていた。我ながら、後先考えずに有料版ブログを始めるのも納得の思い切りの良さである。

 自転車に乗っている時間は考え事に最適である。良いように言ったが、要はかなり暇なのだ。寝ることもできず、ラジオや音楽を聞くこともできない。あまりに暇すぎて脳内でキャラクターが爆誕したので、漫画を描き始めた。絵すらまともに描いたこともないのに。せっかく描いたので、見切り発車に定評のある自分だが、それなりの準備をして3月からSNSに漫画をアップしていこうと思う。

 

 そんなわけで、表示名をペンネームに変えて再開1記事目を投稿した。

幸せは銭湯にあり

 会社勤めをしていた頃、一週間お疲れさまの意味を込めて金曜日に、来週も頑張るぞの意味を込めて日曜日に、銭湯に行くようにしていた。当時住んでいたところはユニットバスだったから、家ではいつもシャワーで済ませていた。そのぶん、銭湯での入浴は格別だった。浴槽のふちに首をひっかけて顎まで湯につかり、熱い湯の中で手足を伸ばし、深く息を吐きながら水面をぼうっと見つめる。そうしていると、身体の回復とともに自分を労わっているという満足感を覚え、自然と思考が前向きになるのだ。この頃から「銭湯っていいな」という思いはもっていたものの、仕事が忙しかったこともあり、自宅から自転車で通えるところにしか行くことがなかった。そして銭湯のことは「ちょっと贅沢なお風呂」としか認識していなかったと思う。

 会社を辞め、時間に余裕ができてからは、スタンプラリーの景品やオリジナルグッズを集める楽しさも手伝って、遠方の銭湯にも喜んで足を運んでいる。銭湯へ通えば通うほど、銭湯は、ただ入浴をする施設とひと言で表すにはあまりにももったいないくらい魅力にあふれた場所であるとつくづく実感する。

 

 銭湯と聞いていちばんに思い浮かべるのは、いわゆる宮造りの銭湯だろうか。神社仏閣のような、立派な外見の銭湯である。豪華な外観を見ていると、当然内装への期待も高まる。暖簾をくぐりながら、自分がもっとも楽しみにしているのは、脱衣所の格天井だ。格天井とは、次のような特徴をもった天井である。

「格天井とは、格縁と呼ばれる木を格子状に組み、その間に四角い一枚板を貼り込んでいった天井仕上げのことをいいます。重厚な印象で、最も格式の高い天井様式とされ、寺院建築、城郭建築に多く用いられています」

(『銭湯検定公式テキスト❶』草隆社  2020年  P.149)

 脱衣所に入り高い格天井を見上げると、屋敷に足を踏み入れたような気分になり胸が高鳴る。浴場に入る前に、はやくも心が癒されるのだ。

 

 銭湯に通うことで、四季を感じることもできる。5月の端午の節句には菖蒲湯、6月の土用の日には桃の葉湯、11月の冬至にはゆず湯、……。季節ごとに、実にさまざまな変わり湯が用意される。そんな湯につかっていると、帰り道に旬の野菜や果物でも買ってみようか、なんて気分になる。

 

 銭湯で得た幸福感は、入浴後も続く。風呂上がりの疲労感と爽快感に包まれながら夜道を歩く心地よさは、他では得難い。そして一日の終わりには、銭湯で味わった感覚を思い出して眠りにつく。薪で沸かした湯のほのかに甘い香り、湯につかっているときに聞こえるシャワーの音、湯上りに休憩しているときの浮遊感、ほてった身体で受け止める扇風機の風、全身に沁みわたるコーヒー牛乳の味、……。

 

 

栗のおいしさを判断できない

 学生時代、栗拾いに行く案が出たが、栗は新鮮さがおいしさに直結するイメージがわかないということで友人と意見が一致し、結局取りやめになった。

 

 栗にも旬があるのはわかる。植物に成るものである以上、収穫できる時期が限られるのは当然だ。問題は、旬の時期に食べる栗は、収穫したての栗は、果たして格別においしいのか、ということ。

 

 新鮮な魚や野菜、果物のおいしさはすぐに想像できるし、おいしくないものとの違いも説明できる。しかしこれが栗になると自信がない。そもそも栗と新鮮という言葉が結びつかない。その理由を考えてみた。

 

 まず、栗は水分が少ないということ。「新鮮」という言葉から想起されるみずみずしさが足りない。また、モンブランや栗きんとんなど、加工したものを食べる機会が多いということ。栗本来の味のバリエーションをよく知らないから、おいしいかそうでないかを判断できないのだ。

 

 つらつらと書いたが、栗が嫌いなわけではない。ので、味の勉強を口実にして、今が旬の栗を食べに行こうと思う。

いつも心に小松未歩を

 前髪を少し短くしただけで 生まれ変われちゃう そんな考え方が…わたしも好きである。他人からはわからないほどの些細な出来事で、心機一転できる小松マインドを大切にしたい。

 

 先日、歯医者で歯のクリーニングをしてきた。歯医者に足を運んだきっかけは親知らずだったのだが、そちらの処置は一旦保留することとなった。その代わり、というわけではないだろうが、クリーニングを勧められたのでそれに従うことにした。定期検診にも行っていなかったため、実に10年以上ぶりの施術である。

 

 美容院のシャンプー時のように目元にタオルをかけられ「おお、歯医者ってこんな感じだったっけ」と思いながら施術が始まった。痛みはないのに、口をゆすぐたびに信じられない量の血の塊が流れ出す。はじめこそギョッとしたものの、だんだんと快感を覚えてくる。

 

 そうしてなんと1時間近くもかけて丁寧にクリーニングしていただいた。ひとたび綺麗にすると、大事にしようとする意識が働くものである。施術が終わったらたこ焼きでも食べて帰ろう、という考えも吹き飛んだ。ほんとうに生まれ変わったようだ。本来半年に一度程度の頻度で通うのがよいとのことなので、今後は9月、3月を歯科検診の月にしようと思う。

 

金木犀

 小さい頃は、金木犀の香りが嫌いだった。香りそのものが嫌というより、あの主張の激しさが嫌だった。わざとらしくて奥ゆかしさのかけらもないそれは、自分の中にある花のイメージとかけ離れていた。

 

 ところが、年をとるごとに、金木犀に対する否定的な感情は薄らいでいった。単純に幼少期よりも嗅覚が鈍くなったからだとも考えられるが、理由はそれだけではない。

 

 大人になり、会社を辞めてからは特に、季節の行事と縁遠くなった。昔と比べ、春や秋の期間が短く感じられるようになってからは、季節のうつり変わりを落ち着いて肌で味わうことも少なくなった。そんなとき、動植物に疎い自分にとって、金木犀が香ることは季節を感じられる数少ない事象のひとつだと気づいた。秋の訪れと金木犀の香りが結びついたとき、無視できない強烈な香りにありがたみを感じた。

 

 年をとってからの味覚の変化は数知れないが、香りに対する感情がこうも変わるとは驚いた。意識したことはなかったが、音や手触りに関する印象も、幼少期から変化したものがあるかもしれない。

嫌な家事ナンバーワンは絶対洗濯

 月曜日は床掃除の日と決めている。床掃除といっても、ルンバ(もどき)を作動させて、気が向いたらクイックルワイパーで水拭きをするだけのことである。無精者の自分としてはまめに掃除をしているほうだと思っているが、週末の床を見て、まともな大人は果たしてこんなに抜け毛だらけの家で生活しているものだろうかと考えることもある。あくまで考えるだけで、掃除のスケジュールを改める気は毛頭ないのだが。抜け毛だけに。

 

 さて、家事といえば、いちばん億劫なのは洗濯である。これはもう、自分の中では長年不動の第一位だ。以前は、可能なかぎり洗いものを増やさぬよう生活し、洗濯の回数は極力少なく済ませていたのだが、自宅で軽い運動をするようになってからは、そうもできなくなった。洗濯の何が嫌かといえば、やはり時間がかかることだろう。洗いものをネットに入れて洗濯機をまわして、洗い上がった洗濯物を干して、取り入れて畳むという複数作業を必要とし、さらに1つの作業が完了してもすぐに次の作業に取り掛かることができない。こちらの都合などおかまいなしに鳴り響く洗濯機の完了音も堪らない。

 

 料理や掃除であれば、サボろうと思えばいくらでもサボれるものである。自炊が面倒なときは外食という手段もあるし、自分が気にならなければ掃除だって頻繁にする必要はない。また、3日ぶりに掃除をしようが3週間ぶりに掃除をしようが、その労力はそれほど大きく変わらない。しかし、洗濯の場合、サボればサボった分だけ干すのも畳むのも大変になる。ほかの家事に比べて、作業工程の省略や工夫をする余地がなく、圧倒的に手を抜きづらいのだ。洗濯を楽にする唯一の方法は、こまめに洗濯をすることである。ということで、今後は2日に1回の頻度で洗濯をすることに決めた。これがわたしの選択だ。

壁掛け時計

 時計を買った。壁に掛ける、ちゃんとした時計である。

 わたしは朝起きるのが苦手だ。目覚まし時計のアラームを止めた記憶もないまま二度寝をしてしまう。そこで、目覚まし時計を洗面所に置き、アラームを止めた流れで顔を洗うことにした。以来、予定していた時間にきちんと起きて、朝の時間を有効活用できるようになった。と、言いたいところだが、アラームを止めた瞬間洗面所の床で二度寝をしてしまうこともある。しばしば、ある。起床には、システムだけではなく意志が必要であることを日々痛感させられる。

 

 目覚まし時計を洗面所に置く効能はさておき。一日のうちに、目覚まし時計を洗面所からリビングへ、リビングから洗面所へと持って移動するのが煩わしくなったのである。パソコンもスマートフォンもあるから時刻はいつでも確認できるのだが、やはりアナログ時計が好きなのだ。人は、時計の針の動きによって、時間の長さを把握している。というようなことを、中学生の頃、違う学校に通う友人の教師が話していたと聞いた。そんな昔の、それも人づてに聞いた話をどうして覚えているかといえば、そのとき妙に腑に落ちたからである。

 

 ちょうどフックが掛けられるレールのようなものがあり、部屋のよい位置に時計を配置することができた。「○時だぞ〜、△△の時間だぞ〜」と、ほどよい圧をかけてくれている。